Yusuke Muroi

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  • ■2018




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    『平凡な芸術家(仮)は本物の芸術家たり得るか(すべてを最初から始めたい)』

    この作品は岡本太郎現代芸術賞展での入選作品である。タイトルにある本物の芸術家がどのような芸術家であるか、答えは複数あるかもしれないが、まず一つ、誰に見せる目的もなく、自分のために執念で制作した純粋な表現は本物の芸術になりうると考える。そして、そのような誰にも見せず社会にコミットさせない態度は、意図せずとも資本主義社会の要求を拒否している。かつてから私はこのような表現に憧れてきた。だが、芸術家を名乗る殆どの人間は、制作のために搾取したものを自分の作品に落とし込み、発表をしたり、販売をしている。つまり彼らは私の憧れの反対側にあった。しかしながら、私はアカデミックな場で芸術を学び、公募展で自らの作品を発表しようとしているのだから矛盾も甚だしいのである。しかも憧れている時点で、そのような表現を本質的に獲得することはできず、彼らと同様に、むしろ搾取することしかできない。私はこれまでも幾度となく考えたが、もはや芸術家を名乗る殆どの人間のような存在として割り切ってしまうしかないのかもしれない。しかし本当にそれで良いのだろうか。そんなことを私は何度も繰り返している。私は芸術家にならなければよいのに芸術家になろうとしているのである。

    そもそも、私は平凡な人間であるがゆえに、自分の中には無いものに憧れ、獲得しようとすることに躍起になってしまったのかもしれない。つまり、躍起になることが私にとっての執念であり、その気持だけが偽りのない事実として、ある種の本物と言えるのかもしれない。しかしそれは私が求める本物とは違うのである。私の心の中には不必要な本物性のみがあり、本当に必要な本物性は永久に宿ることはないのかもしれない。つまり一生私はなりたい芸術家像にはなれないということである。だがそれを知りながらも、私は自分の中には無い本物の表現を求め続けている。

    そして、そのような私の外側にある表現を追求していく中で、最近は幼少期に描かれる絵に注目するようになった。幼少期というのは一般的な決まりごとには何一つ囚われず、突飛な色や構図で絵を描くことができる時期である。また、芸術家を目指そうとしているわけでもなく、褒められようとするわけでもなく、自分のために絵を描くような、そんな時期が内在しているようにも思える。なぜなら私もかつてはそうだったはずであり、実際に残っていた絵がそれを示していたからだ。そこには確かに私の趣向に基づく執着があり、それに従ってのみ描かれたようなものがいくつかあった。私も元来本物の芸術家の一人だったようだ。しかし今は違うのだ。幼少期という芸術家は非常に短命であり、その後は、技法を知り、褒められることを知り、歴史を知り、どんどん不純になっていくのである。本物の芸術が純粋なものであるならば、あらゆる不純物が付着することを許してはならない。だが、私にはもう手遅れであることは言うまでもない。そして、あらゆることを知る以前の段階に、知ってしまったあとでなろうとすることは演じることでしかなれないのである。だから、ここでも私はこれまでと同じだった。私は幼少期の絵が描けるようになるために演じたのだ。そして幼少期にだけ存在した芸術家が今も存在するかのように振る舞うことをしようとしたのである。私は私が求めるかつての唯一の本物性を延命させようとしたかったのだ。だから私は幼少期まで遡ってパラレルに生き続ける本物の芸術家像をでっちあげようとした。だがそれは情報を遮断して幼少期のまま成長してしまった私を示すことではない。今日にいたるまでの自分を肯定しながらも幼少期の頃の絵を当時から今もなお描き続けることができた私を示すことである。しかし私にとって肯定できない部分はいくつもあったのだ。それゆえに私は自らの過去の作品や資料を徹底的に選別し、さらに、他人の幼少期の絵や、自らと関わりのないオブジェクトを外部から集め、それを混在させた。私は、私にとって不必要な過去を別のもので置き換えかった。それはコンプレックスを埋め合わせたかったからなのかもしれない。いや、むしろ芸術家になる必然性もない平凡な私の人生を芸術家になる必然的な人生として、でっち上げることをしたかったのである。そして、私はここに集められたそれぞれの媒体の近くに、年齢を意味する番号のシールを貼った。しかし、これらの番号は私に関係する当時の年齢とは限らないようにしてある。つまり3歳で描いた絵を27歳で描いた絵と設定し、27歳で3歳の絵を模して描いた絵を3歳と設定したりした。さらには、日焼けした古い紙に描いたり、ひらがなの名前印を押して、幼少期に描いたかのように振る舞った。私は自らの個人史を攪拌した。そして幼少期の純粋な表現は、攪拌されてでっちあげられた虚構の一部となった。

    すなわち虚構によって本物の表現を凌駕しようとすることは今私に残された方法論の一つである。本物は嘘をつけないが偽物は嘘をつくことができる。私は不純な演じる人間である以上あらゆるものに異なる意味を与え、または意味を組み替え、鑑賞者の審美眼を麻痺させようとする。つまり意味を撹拌することで、鑑賞者が意味に頼って物事を見ているかどうかが分かる。本物と偽物はそこに与えられた意味が撹拌されようとされなかろうと最初から決定しているのである。





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